文壇と政界に、巨大な足跡を残した石原慎太郎(1932~2022)。その歯に衣着せぬ物言いは、常に世間の耳目を集めた。しかし、いくら燃え盛った太陽も、いつかは沈む。その最期を看取った、画家で四男の延啓(のぶひろ)氏が明かす、父・慎太郎が遺した言葉とは。(全3回の2回目/#3に続く)
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石原の四男である私は1966年、神奈川県・逗子海岸近くの家で生まれました。
その家は私が生まれる1年前に、父が建てたもので、崖の上に立つ鉄筋コンクリート打ちっ放しの2階建て。父の人生の大部分を占める「海」を一望できました。その頃は芥川賞を受賞してから10年が経ち、流行作家として小説を次々と発表していた時期で、映画、演劇、ヨットと、マルチに活動して大変な勢いがあったようです。
とても広い家でしたが、父の書斎、アトリエ、書庫、サロンなど、ほとんどは父だけの為の空間が占めていました。
私たち子ども4人に与えられたのは小さな部屋ひとつ。3人の兄たちにとっては、せっかく広い家に引っ越してきたのに、自由に遊べる空間が限られ不満だったそうです。庭もかなりの広さでしたが、夜遅くまで起きて仕事をしている父が眠っていたので昼を過ぎても声を立てて遊ぶ事はできませんでした。私が10歳を過ぎてから、ようやく子ども部屋を増築して全員に一部屋ずつ分け与えてもらいました。
父は“リベラル”
私にとっての父はアーティスト、表現者の大先輩でした。アーティストが時に物書きになり、時に政治家になった。父は絵も非常に上手くて才能がありました。子供たちは、長男(伸晃)と三男(宏高)は政治家、次男(良純)が俳優でタレント、そして私が画家の道へと進みました。
先日、次兄がテレビ番組でこんなことを言っていました。
「親父にとって子どもは分身」
だから、たまに好き勝手なことを言うけれども、直接何かを教えてくれる訳ではない。家にもほとんどいませんでしたから、「背中で語る」というわけでもない。家庭での教育は母の役割。政治家の妻として支援者の前で父に恥をかかせないようにとしつけには厳しかったと思います。
父は画家を志望していた事もあり、私たち兄弟は子どもの頃から絵画教室に通わされていました。兄達がそれぞれの方面へと興味を移す中、残された私はアーティスト・石原慎太郎の分身であるわけですから、父は「お前は当然、絵描きになるのだろ」という調子です。大学は経済学部名目の体育会水球部。このまま就職するにせよ、どうするかなと思った時期もありましたが、父は私が画家になることを信じて疑わなかった。かといって進路について話すことも強制することもありませんでした。
放任主義の父でしたから、アートの道へ進んでからも、たまに批評をするのみで具体的なアドバイスをもらったこともありません。但し、常に感覚、感性の話はしていました。そして、私がその都度興味を持った訳の分からない抽象的な話題を持ち出しても、面白がって聞いてくれました。思い返しますと、あんなに勘が良くて聞き上手な人は珍しいのではないかと思います。